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有りがたく聴聞いただきました。
山本和上、会えて嬉しいです。わかりやすい言葉で、心にはいります
いつか池田先生の法話を間近でおききしたいものだとつくづく思いました。動画を上げてくださりありがとうございます。
鶏が先か卵が先の問題は間違いと思う。
問題は、親鸞聖人は現にと言われた、123456どの卵とどの鶏かの問題、同時とも言える、現に2と5なら2が先と成る。
おかげさまで、また聴聞する機会をいただけました。有難うございます。ただ難しいことはわからないものですから、???ばかりで碌な返信をできんのが残念です笑
南無阿弥陀仏🙏
❤
向こうからはじまるというお言葉もありがたい。
南無阿弥陀仏
能発一念喜愛心 越えておこる やぶられることというお示しはありがたいです。なもあみだぶつ
生きているときに死んだひとは死ぬときに死なない。こんな言葉が西洋にもあったとは。
往生とは、一念帰命の後に菩薩の浄土より阿弥陀仏の浄土へ行く道中のこと。不体失往生の事は徳を得るための往生なり等。
現生往生説が親鸞聖人の教義であれば、わざわざ往生すべき身に定まると念押しする必要がないのではないでしょう。即得往生という仏説(往生を得とはのたまえる)を現生往生と誤って理解してしまう恐れを宗祖はご存知で、わざわざ正定聚に就くことだよとお示しくださる教義を、現代の知識の延長で変えてはならない。と思います。
文字、知識の延長には、浄土は絵空事でしかなく、浄土往生とは死んだあとの事態として、現代の私に疎遠のように感じてしまうのは無理はないのでしょう。その方向の逆なるはたらきの領解(他力回向の信)を示された宗祖の他力の論理をただただ聴聞しつづけることしかない、自己の在り方を感じます。なんまんだぶ
浄土と現生が平面的、二元論に陥っていればこそ、浄土往生から、より現生にもってきたいのでは。。。宗祖において浄土とははたらきとしてより立体なので、逆なのではないかと。
自我の分別が、浄土往生をわからなくする根本でありましょう。
,念佛は、やすき行なれば申す人はおおけれども 往生するものの すくなきは 決定往生の故実をしらぬゆえなり とあるかならず現生に十種の益を獲
善悪の文字しりがおは おおそらごとのかたちなり自分にも当てはまります。
ありがたく拝聴いたしました。今生に弥陀の本願を信じ、かの土に往生して涅槃を得というのは、浄土教の根幹を平面的、二元的というのはどうでしょうか。そもそも死後、往生なのではなく厳密には、死そのものを往生と置き換えてくださっているわけで、死んだあと往生というのはいまだ死を知らぬ私たちの誤謬でしょう。生死を超えること、つまりまさしく今生にお念仏申す身となることは、われわれがもっとも苦に感ずる死を往生という本当の終わりなき命の世界への帰入に変えてくださるわけでしょう。だから死のない世界、ご利益があるわけですね。現生正定聚のご利益といってもいいでしょう。現生に往生を引き付けて考える(現生往生説)のは、現にはたらくいてくださるお念仏と現生正定聚というご利益がそこかすっとばされて、現生往生までいっているような気が。。。知識分別、文字のしりがおになるというのか、より生死の分別的認識、つまり生と死の分別、解離が大きくなって、生の世界偏重になればなるほど、浄土往生がわからなく、現生に往生を引き付け、現代の知識で真宗教義をさばいてしまう恐れを感じます。もっと親鸞聖人をはじめ、さまざまな浄土教の祖師がたは、死んだあとのはるか彼方に浄土を置かれているのではなく、真仏土巻に示されるごとく、現に浄土にはたらかれて明らかになる、現存在の私という命という方向性であって(仏→私)、浄土往生でなんら問題はないのではないでしょうか。死=往生が信じられなくなり、浄土を今生の延長に分別しているが故、今往生を解かなければならない矛盾を生じているようにうかがえます。今生に本願を信じ、かの土に往生して、涅槃を得という教義、仏説は揺るがないし、混乱を生じさせる現生往生説はいかがなのかという疑問を生じます。勝手な意見を申しあげたこと、ご寛恕くださいませ。
なるほど、、浄土を国としてみるのではなく、生死の中でもう働きがあるということでしょうか?
生きとるうちに、(自我のはからいに)死んだひとは、死なないということですか?
虚仮分別の言葉、知識の延長に浄土なく、浄土、真実の回向の言葉(名号)に浄土あり。
人間の善悪の文字、知識の延長には、浄土なく、名号法なく、弥陀回向の文字に、浄土あり、真実あり。真実の言葉により、虚仮の言葉がしらされて。
往生の定義が問題になるのでは、往生即成仏であるならば、現生往生=現生成仏になってしまうのでは。
虚仮、分別で浄土を考えると、浄土往生が疑わしくなる。
等流因果、終わりからはじまるというお言葉ですが、往因に関してはいえるでしょうが、証まで言うと、現当密益に・・・
鶏が先か卵が先か、鶏先と結論付けたが間違いと思う、その鶏は卵が大きく成ったもの同時と言う説も有る。仏教学で考えると簡単に答えが出る。現に我罪悪生死の凡夫の意味から答えが出る、問題は、どの卵と・どの鶏かと考えれば、答えは簡単
有りがたく聴聞いただきました。
山本和上、会えて嬉しいです。わかりやすい言葉で、心にはいります
いつか池田先生の法話を間近でおききしたいものだとつくづく思いました。動画を上げてくださりありがとうございます。
鶏が先か卵が先の問題は間違いと思う。
問題は、親鸞聖人は現にと言われた、123456どの卵とどの鶏かの問題、同時とも言える、現に2と5なら2が先と成る。
おかげさまで、また聴聞する機会を
いただけました。有難うございます。
ただ難しいことはわからないもの
ですから、???ばかりで
碌な返信をできんのが残念です笑
南無阿弥陀仏🙏
❤
向こうからはじまるというお言葉もありがたい。
南無阿弥陀仏
能発一念喜愛心 越えておこる やぶられることというお示しはありがたいです。なもあみだぶつ
生きているときに死んだひとは死ぬときに死なない。
こんな言葉が西洋にもあったとは。
往生とは、一念帰命の後に菩薩の浄土より阿弥陀仏の浄土へ行く道中のこと。不体失往生の事は徳を得るための往生なり等。
現生往生説が親鸞聖人の教義であれば、わざわざ往生すべき身に定まると念押しする必要がないのではないでしょう。即得往生という仏説(往生を得とはのたまえる)を現生往生と誤って理解してしまう恐れを宗祖はご存知で、わざわざ正定聚に就くことだよとお示しくださる教義を、現代の知識の延長で変えてはならない。と思います。
文字、知識の延長には、浄土は絵空事でしかなく、浄土往生とは死んだあとの事態として、現代の私に疎遠のように感じてしまうのは無理はないのでしょう。その方向の逆なるはたらきの領解(他力回向の信)を示された宗祖の他力の論理をただただ聴聞しつづけることしかない、自己の在り方を感じます。なんまんだぶ
浄土と現生が平面的、二元論に陥っていればこそ、浄土往生から、より現生にもってきたいのでは。。。宗祖において浄土とははたらきとしてより立体なので、逆なのではないかと。
自我の分別が、浄土往生をわからなくする根本でありましょう。
,念佛は、やすき行なれば申す人はおおけれども 往生するものの すくなきは 決定往生の故実をしらぬゆえなり とあるかならず現生に十種の益を獲
善悪の文字しりがおは おおそらごとのかたちなり自分にも当てはまります。
ありがたく拝聴いたしました。今生に弥陀の本願を信じ、かの土に往生して涅槃を得というのは、浄土教の根幹を平面的、二元的というのはどうでしょうか。そもそも死後、往生なのではなく厳密には、死そのものを往生と置き換えてくださっているわけで、死んだあと往生というのはいまだ死を知らぬ私たちの誤謬でしょう。生死を超えること、つまりまさしく今生にお念仏申す身となることは、われわれがもっとも苦に感ずる死を往生という本当の終わりなき命の世界への帰入に変えてくださるわけでしょう。だから死のない世界、ご利益があるわけですね。現生正定聚のご利益といってもいいでしょう。現生に往生を引き付けて考える(現生往生説)のは、現にはたらくいてくださるお念仏と現生正定聚というご利益がそこかすっとばされて、現生往生までいっているような気が。。。知識分別、文字のしりがおになるというのか、より生死の分別的認識、つまり生と死の分別、解離が大きくなって、生の世界偏重になればなるほど、浄土往生がわからなく、現生に往生を引き付け、現代の知識で真宗教義をさばいてしまう恐れを感じます。もっと親鸞聖人をはじめ、さまざまな浄土教の祖師がたは、死んだあとのはるか彼方に浄土を置かれているのではなく、真仏土巻に示されるごとく、現に浄土にはたらかれて明らかになる、現存在の私という命という方向性であって(仏→私)、浄土往生でなんら問題はないのではないでしょうか。死=往生が信じられなくなり、浄土を今生の延長に分別しているが故、今往生を解かなければならない矛盾を生じているようにうかがえます。今生に本願を信じ、かの土に往生して、涅槃を得という教義、仏説は揺るがないし、混乱を生じさせる現生往生説はいかがなのかという疑問を生じます。勝手な意見を申しあげたこと、ご寛恕くださいませ。
なるほど、、浄土を国としてみるのではなく、生死の中でもう働きがあるということでしょうか?
生きとるうちに、(自我のはからいに)死んだひとは、死なないということですか?
虚仮分別の言葉、知識の延長に浄土なく、浄土、真実の回向の言葉(名号)に浄土あり。
人間の善悪の文字、知識の延長には、浄土なく、名号法なく、弥陀回向の文字に、浄土あり、真実あり。真実の言葉により、虚仮の言葉がしらされて。
往生の定義が問題になるのでは、往生即成仏であるならば、現生往生=現生成仏になってしまうのでは。
虚仮、分別で浄土を考えると、浄土往生が疑わしくなる。
等流因果、終わりからはじまるというお言葉ですが、往因に関してはいえるでしょうが、証まで言うと、現当密益に・・・
鶏が先か卵が先か、鶏先と結論付けたが間違いと思う、その鶏は卵が大きく成ったもの
同時と言う説も有る。仏教学で考えると簡単に答えが出る。現に我罪悪生死の凡夫の意味から答えが出る、問題は、どの卵と・どの鶏かと考えれば、答えは簡単